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| 「1131」 大避(おおさけ)神社と聖徳太子と妙見(みょうけん)信仰、古代日本の謎を解く 下條研究員記 2010.5.31 |
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SNSI・副島隆彦を囲む会のジョー(下條)です。今日は2010年5月30日です。今回は普段の時事問題からは離れて、日本史の謎について少し迫りたいと思います。 今、NHK・大河ドラマでは、「龍馬伝(りょうまでん)」を放送しています。これは、坂本龍馬(さかもとりょうま)の生涯を描いたドラマをやっています。
この坂本龍馬が千葉道場で習っていた剣術が北辰一刀流(ほくしんいっとうりゅう)です。この北辰一刀流について、最近、平野貞夫という、政治家・小沢一郎のブレーンだった人が『坂本龍馬の10人の女と謎の信仰』という本を出しています。 この本の中で、平野氏は、坂本龍馬は、千葉道場で北辰一刀流の奥義として「妙見(みょうけん)信仰」を身につけ、それが反幕府の思想に結びついて倒幕・維新とつながっていったのではないかと述べています。この妙見信仰は北斗七星(ほくとしちせい)・北極星を崇める信仰で、日本全土に拡がっています。 今回の投稿は、この妙見信仰の由来を、日本の古代史から明らかにしたものです。 聖徳太子、蘇我馬子(そがのうまこ)、弘法大師(空海)、柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)など、一度は高校の時の日本史の授業で聞いた有名人の名前が次々とでてきます。それでは、以下に続きます。 <1つめの謎 大避神社、斑鳩寺、北極星、北斗七星> 私(下條)は西播磨(にしはりま)に住んでいますが、このあたり一体には大避(おおさけ)神社という神社が点在しています。あの赤穂浪士(あこうろうし)で有名な兵庫県赤穂市から、上郡町(かみごおりちょう)、相生市(あいおいし)にかけて地図の上で8神社、その他名前がちょっとちがう大酒神社や地図に載っていない大避神社までいれると、さらに多くあります。 この大避神社でいちばん有名な神社が、赤穂市の坂越(さこし)にある大避神社です。ここには、生島(いきしま)という島が沖合にあって、そこには秦河勝(はたのかわかつ)の墓があります。秦河勝という人は、聖徳太子のブレーンと言われ、古代史では有名な人です。 秦河勝(はたのかわかつ、生没年未詳)とは、6世紀後半から7世紀半ばにかけて大和王権で活動した秦氏出身の豪族のことです。秦丹照または秦国勝の子とする系図があります。 秦氏(はたし)は6世紀頃に朝鮮半島を経由して日本列島の倭国へ渡来した渡来人(とらいじん)集団と言われ、そのルーツは秦の始皇帝ともいわれます。 この河勝は秦氏の族長的人物であったとされ、聖徳太子のブレーンとして活躍したそうで、富裕な商人でもあり朝廷の財政に関わっていたといわれます。その財力により平安京の造成、伊勢神宮の創建などに関わったという説もあります。聖徳太子より弥勒菩薩(みろくぼさつ)半跏思惟像を賜(たまわ)り広隆寺を建てそれを安置した人物です。秦氏については最近も、文春新書から、水谷千秋という歴史家が『謎の渡来人・秦氏』を出して、「ものづくり民族の原点」であるとして紹介しています。 また、この大避神社は、いわゆる「日本ユダヤ同祖論」でも有名です。この「大避」というのは、中国語で「ダビデ」を意味します。ダビデとは、ペリシテ人の勇士ゴリアトを一発で倒したとされるユダヤのダビデ王のことです。彼はサウル王に続く二代目ですが、事実上のイスラエル王国建国の祖です。だから大避神社は「聖ダビデ神社」を意味します。 秦氏が「失われたユダヤ10部族」のうちのダン族であり、秦河勝はユダヤ人であるという説がまことしやかに語られています。 さて、私の持っている旺文社の地図では、8つの大避神社が確認できます。これらは北斗七星の形をしています。下の図です。
その時、気がついたのですが、この北斗七星は形が変で、夜空に見る形とは逆になっています。つまり、柄杓(ひしゃく)の椀(わん)を上向きにして、柄(え)が左にあるはずなのに右になっています。 そこで、逆さまにして形をかえてみました(図の点線)。するとほぼ北斗七星の形になります。特に柄のところの、曲がり方がそっくりです。 この話を、このサイトにある「ふじむら掲示板」にのせたところ、菊池さんという会員の方から「ただ千種(ちぐさ)川にそっているだけで、偶然なのではないか」という指摘がありました。 また、地図にはのっていない大避神社もたくさんあるそうで、それらもあわせると、とても北斗七星型とは言えません。下の図が、菊池さんが実際に調べてくれたものです。青い印が大避神社ですが、たくさんあるのがわかります。
ですから、「偶然だろう」とあきらめていたのですが、ある時、中国の星図をこの地図と比較してみようと重ねてみて、びっくりしました。多くの大避神社が中国名のついた星にうまくあうのです。
北斗七星の2つの星など、大避神社のないところもあります。しかし、例えば、矢印の先には、昔、大避神社だった宇麻志(ウマシ)神社という神社があります(『播州赤穂郡祭礼式大略』より)。だから、完全ではありませんが、星図と大避神社の位置の相関は非常に高いです。 この図でみると、秦河勝の墓とされる、坂越にある大避神社が北斗七星のアルファー星(もっとも明るい星)の位置になります。 そして、重要なのは、北極星の位置のすぐ近くには聖徳太子ゆかりの斑鳩(いかるが)寺があることです。地図からはみ出ていますが、およその北極星と斑鳩寺の位置を上の図にしるしておきます。 地元の斑鳩寺の観光ページを引用しておきます。 <引用開始> 聖徳太子が、推古天皇14年(604年)に飛鳥の豊浦宮(とようらのみや)、今の橘寺において、推古天皇の御前にて勝鬘経(しょうまんぎょう)を講話されました。推古天皇は大いに喜ばれて聖徳太子に播磨国揖保(いぼ)郡の水田、百町を寄進(きしん)されました。聖徳太子はその地を「斑鳩荘」と名付けられ、一つの伽藍を建てられたのが斑鳩寺の始まりです。 聖徳太子は斑鳩寺を法隆寺に寄付されました。以後法隆寺の荘園として千年近くにわたり栄えました。 <引用終了> ここでは詳しく述べませんが、北極星は中国名では「天皇大帝」と呼ばれますので、天皇とは北極星のことです(『天皇がわかれば日本がわかる 』、斎川 眞著、ちくま新書)。また、北斗七星は、その天帝の乗り物であり、家臣をあらわすとされています。秦河勝の墓の位置が北斗七星のアルファー星で、秦河勝は聖徳太子のブレーンといわれていましたから、彼らの人間関係が、星の関係とうまくあっているのがわかります。 したがって、やはり、大避神社と北斗七星の関係は、偶然ではないと思います。 なぜ、北斗七星の2つの星に相当する神社が消えているのかは、桓武天皇が出した796年の北辰祭(ほくしんさい)禁止令によるものだと推測されますが、確かなことはわかりせん。 ただ、この大避神社・斑鳩寺、北斗七星・北極星の関係が記された文献は、私の調べた限りありません。したがって、単純に、およそ1200年前の古代日本の謎が、今解けたといってもいいと思います。
さて、「聖徳太子は蘇我入鹿と同一人物である」という、副島先生の説があります。 どうぞこちらを参照下さい。 「私の「聖徳太子は蘇我入鹿と同一人物である」論を遂に載せます。前編。のちに私の『属国日本史論』の一部となります。 2002.8.31 」 ここから一部引用します。 <引用開始> 蘇我氏は、馬子の父・稲目(いなめ)から始まるとされる。そして馬子と入鹿の間に蝦夷(えみし)がいるとされるが、実在したかは疑問である。馬子(用明天皇)は物部氏を滅ぼした翌年に、息子の入鹿(聖徳太子)を摂政にしている。「蘇我馬子は、聖徳太子とともに物部氏を滅ぼした」と大半の歴史書には書いてある。馬子と聖徳の関係が明らかでない。しかし、これは、馬子と聖徳(入鹿)が実の親子なのだから当たり前だと考えれば納得が行く。 これまで日本の歴史家たちは、聖徳太子は仏教に深く帰依し、日本文化人、知識人の始祖としてきた。それでは、そのような平和主義者の聖徳太子がなぜこのような殺し合いに参加しているのか、説明することができない。 事実は、『日本書紀』のなかで、同一人物を悪役・入鹿大王と聖人・聖徳太子に故意に分けたのであろう。 <引用終了> 私も、副島先生の説を支持します。 すると、北極星の位置にある斑鳩寺とは、実際は、蘇我入鹿ゆかりの寺ということになります。確かに、斑鳩(いかるが)と入鹿(いるか)ということばは、非常に似ていますから、本当は蘇我氏で斑鳩寺に住んでいた王子を「いかるがのそが」、「そがのいかるが」と呼んでいたのではないかという推測ができます。 また、私は、先ほど、名前が変わった大避神社がひとつあると書きました。現在の宇麻志(ウマシ)神社ですが、実はこの神社は蘇我馬子(そがのうまこ)を祀(まつ)った神社と言われています。馬子を「うまし」と呼んで宇麻志(ウマシ)神社と名前を変えたそうです。 そこで、相生市のホームページから引用します。 <引用開始> 相生市矢野(やの)町小河(おうご)には蘇我馬子をまつったという宇麻志(うまし)神社があります。 『赤穂郡誌』によれば、宇麻志神社について、「小河村にある。宇麻志阿斯訶備比古遅神(うましあしかびひこぢのみこと)を祀(まつ)る村社です」と記録されています。 宇麻志神社の祭神は宇麻志阿斯訶備(あしかび)比古遅神(ひこじのかみ)です。元は宇麻子神社と言い、祭神は蘇我馬子でした。後に、馬子をはばかって宇麻志と改称したといいます。 <引用終了> ちなみに、この近くには蘇我入鹿ゆかりの「入鹿(いるか)の淵(ふち)」という池もあります。 この宇麻子神社の位置は、星図では「右枢」の近くの「太乙(たいいつ)」です。「右枢」はりゅう座のアルファー星(トゥバン、Thuban)にあたり、5000年前の北極星です。地球の軸が歳差(さいさ)運動(みそすりの棒のように軸が動く)をしているので、数千年の年月では、北極星は変わるのです。この近くの「太乙」という星が、重要な星であることは、太乙とは太一、すなわち道教の太一神と同じ名前であるという事実からわかります。多分、5000年前、この星が極に一番近かった星なので、メソポタミアでその手の名前がついていて、それが中国に流れてきたのだと思います。 以上を考えると、大避神社は、蘇我氏、特に蘇我馬子と蘇我入鹿を祀(まつ)った配置をしていることがわかります。 蘇我氏が、なぜ祀られているかといえば、やはり副島説のように、彼らは大王(おおきみ)だったからに他ありません。岡田英弘氏という歴史学者によると、継体天皇以降は、事実上、越前王朝という別の王系に帰属できるそうです。また、安閑(あんかん)天皇の息子の豊彦王(存在は公式には認められていない)が蘇我稲目(そがのいなめ)だという説もあります。 蘇我馬子と蘇我入鹿の秘密、これが第二の謎解きです。
さて、ここで、北の星々の中国名を簡単にまとめておきましょう。 北極星を中心とした北の方の星々を、中国では紫微垣(しびえん)と呼びます。この紫微垣で、一番重要なのが北極五星と呼ばれる5つの星です。それぞれ、太子、帝(みかど)、庶子(しょし)、后(きさき)、天枢(てんすう)と名前がついており、この天枢が西暦500年頃の天の極(回転の中心)になります。実際、高松塚古墳やキトラ古墳の天上には星図が描かれていますが、その星図ではこの天枢が中心に描かれています。
ちなみに、北辰(ほくしん)ということばがありますが、この北極五星すべてのことをいう場合、天枢の星のみのことをいう場合、北極星のことを言う場合と様々です。個人的に北辰とは、もともと、この北極五星のことをいったのが、後に天枢のことに変化したと解釈しています。 さて、この北極五星の二番目が帝(みかど)という星で、こぐま座のベーター星(コカブ)になります。この星は、紀元前1000年頃は北極星でした。さきほど述べたように、北極星は変わるのです。そして、このこぐま座のベーター星「帝(みかど)」は、その名の通り、中国の皇帝あるいは天帝を意味します。 北極星だから世界の中心で「帝」とつけたのだろうと思っていましたが、どうやら、そうではなく、極である天枢から、いちばん近い明るい星だからというのが理由なようです(『中国の科学と文明(5) 天の科学』、ジョセフニーダム著、思索社)。 私は、きっと地図上で、この「帝」の位置にも、古い神社の跡やなにかがあるだろうと探していました。ちかくには三濃山(みのうざん、みのやま、神の山)や、あるいは城山(きのやま)という4世紀ごろからある山城もあるので、最初はここらかと目をつけました。しかし、残念ながらそれらしいものはありません。 そして、何回か山を散策して見つけたのが、大倉山という地図にもでていない山の山頂です。
この山の頂には、巨大なイワクラ(大きな岩のこと)があります。岡山から兵庫にかけては、山頂のイワクラは必ず、その土地の神様として祀られています。(例えば、『祭祀から見た古代吉備』、薬師寺慎一著、吉備人出版) だから、逆に、イワクラだけでは、別に珍しくもないのですが、このまわりを、石を積んだできた石壁があります。半分以上は壊れていますが、下の写真のような石の壁でまわりを囲まれています。全体の大きさが半径十メートル以上にはなる大きなものです。
したがって、大倉山山頂にあるのは、ただの石のかたまりではなく、「イワクラを使った石塔」と言っていいでしょう。これを見て、「帝」という星の位置にあるものは、この石塔だと私は思いました。 ただ、この「イワクラを使った石塔」が何をあらわしているかは、今はわかりません。 この「大倉山山頂の石塔」が三番目の謎解きです。
さて、この3つの事実をどう解釈すればいいでしょう? 例えば、秦氏とはユダヤ人の末裔(まつえい)だといううわさがあります。だから、ユダヤ人の信仰で全体像をつくっていくことは可能です。また、聖徳太子は突厥(とっけつ)の王子という説もありますから、この影響とみることもできるでしょう。 しかし、ここでは、歴史家・岡田英弘氏の古代日本の学問的枠組みを使って、解釈したいと思います。 学問的枠組みというのは恐ろしいものです。これがしっかりしていれば、どんな言説でも鋭くみえます。逆に枠組みがいい加減だと、その時はどんなに立派にみえても、時間と共に崩れます。会員の方は、「帝国属国論」「属国日本論」の学問的枠組みで、政治・経済を論ずると、どれだけ経済予測があたるのか、どれだけ日米関係が正確に記述できるのかというのというのを、身をもって感じているのではないでしょうか。 また、最近出版された本に『日本語の正体・倭の大王は百済語で話す』という本があります。よくわからない部分もありますが、大きく見れば、当を得た指摘が多い本です。これは、基本的なアイデアを、岡田英弘氏の「倭国」から得ているからです。 さて、この岡田英弘氏の古代日本の学問的枠組みを一言で言えば、 「紀元667年に日本が誕生する前にあった「倭国」とは、様々な華僑(overseas Chinese)と倭人(わじん)がつくった連合国のことである」 ということです。ここで言う華僑とは、一般的には「渡来人」と呼ばれている人々のことで、漢字を使って商売・交易をした商業者のことを意味します。副島先生が、華僑を正確に定義した文章があるので引用します。 <引用開始> 華僑たちは、中国と周辺の国々の間で交易を繰り返すうちに現地の良港(りょうこう)に居留するようになり、やがて現地人の女と結婚して子供をつくる。 ところがこの混血の二世たちは、中国人としての強烈な誇りを失わず、自分のことを中国人だと思い続ける。たとえ何代続いても自分たちを中国人だと規定し、現地人に同化しない。文化習俗もそのまま中国式である。ところが現地で生活する以上、話し言葉だけは現地語化していき、しだいに中国語ができなくなってくる。 しかしそれでも現地語には文字や文献はないので、もっぱら中国文(漢文)の書物を読み、中国語を書く。 <引用終了> この岡田説が、ある種、意味することは、「本質的に日本人とは華僑の末裔(まつえい)であり、日本という国をつくったのは華僑である」ということです。 この事実には、感情的についていけない人も多いと思います。副島先生が「ターミネーターと戦っていたら、自分の親分が実はターミネーターだった」という比喩をよくつかいますが、これは、「ターミネーターと戦っていたら、自分自身がターミネーターだった」ということだからです。 ここでは、仮に納得していただいて、この岡田英弘氏の古代日本の学問的枠組みでどうなるかを考えてみます。 日本人は、いろいろな華僑の末裔(まつえい)に分類することが出来ます。例えば、百済人。彼らは、昔あった、帯方郡(たいほうぐん)という中国の出張所みたいな所にいた、華僑商人の末裔です。また、漢人(あやびと)、秦人(はたびと)という言い方もありますが、これは、これらの人々が話す中国語が違うことに由来します。漢人は、やはり、帯方郡(たいほうぐん)からきた比較的新しい華僑で、沿岸部の中国語を話していたようです。 一方、秦人(はたびと)は、韓半島の国から移ってきた古い華僑です。歴史的に見れば、魏志東夷伝(ぎしとういでん)に秦人の国である「辰韓」(後の新羅国)や「弁辰」(後の加羅国)がでてきますので、彼らはそこを経由してきた人々と考えられます。 重要なのは秦人の言語で、彼らは中国の陝西省(せんせいしょう)(長安や咸陽あたり)付近の中国語を話していました。 日本での秦人の存在は、裴世清(はいせいせい)という隋からの使者が、「秦王国があった」という形で日本にいたことを目撃しているので、証明されています。 さて、秦河勝というぐらいですから、秦人であると考えられます。また、近くに白旗(しらはた)城という赤松則村という鎌倉時代末期に足利尊氏と共に戦った武将の山城があります。地元の本には「この「白旗」とは、「白」が「新羅」を、「旗」は「秦」をあらわし、新羅系の秦氏を意味する」との記述がありました。ここから、考えると、この大避神社をつくった人々というのは、新羅系の秦人、つまり新羅とのつながりが強く、かつ中国陝西省あたりの中国語を話していた辰韓(しんかん)系統の人々ということになります。 すると、前半で見てきた北斗信仰・北辰信仰は、彼ら、新羅系の秦人の信仰であったということ、また、蘇我氏、秦氏などは、みな、これら新羅系の秦人か、そのゆかりの人であったということになります。 もし、蘇我氏が本当に新羅系の秦人であれば、それは、歴史的に、非常に重要な事実です。つまり、蘇我氏は仏教を高句麗・百済から取り入れたと日本史には書いてありますが、これは、隋・唐という勃興(ぼっこう)する超大国に対して、東アジアの四国(倭・高句麗・百済・新羅)連合を目論んでいたことになるからです。まさに、現在の東アジア情勢をみるようです。
今書いたように、秦人は、中国陝西省(せんせいしょう)付近の中国語を話していた人々です。したがって、当時の最先端の情報を中国(隋と唐)から得るのにもっとも有利な立場にいたといっていいでしょう。 先日、NHKで「大仏開眼」という歴史を題材にしたドラマを放送しました。そこには、遣唐使として多くの人がでてきます。単純に考えると、遣唐使として唐に派遣された人々、つまり、弘法大師(空海)、吉備真備(きびのまきび)、阿倍仲麻呂らも秦人だと考えられます。現地語(=中国語)を話せなければ、到底学問など学べないからです。
というよりは、自分たちの過去を消したというのが正しいでしょう。 それは紀元670年の頃の日本の国際情勢が緊迫したものだったからです。先ほどの副島先生の文章から引き続き引用します。 <引用開始> 岡田説によれば、それまで瀬戸内海各地の主要な良港やその終点である難波に華僑(代表地が今の四天王寺(してんのうじ)。ここは、飛鳥の法隆寺と並んで蘇我氏の生活拠点である)として居住していた中国人たちが、この経済的・軍事的危機に際して、自らの権益と安全を守るために、天智天皇(てんちてんのう)という倭人(土着日本人)を頭に戴いて日本という国を建国させた。 そして自らは官僚・技術者・商人群として天皇に服従し、自分たちの素性である中国人性を意図的に消滅させて、建国の秘密を歴史の闇に葬ったのである。 <引用終了> 岡田英弘氏は、彼らのうち、貴族と親戚関係があるものは、その家系に素性を変えてしまったというふうに指摘しています。
さて、最初の坂本龍馬の話に戻ると、龍馬が千葉道場で習っていた剣術が北辰一刀流(ほくしんいっとうりゅう)です。 平野貞夫氏は、『坂本龍馬の10人の女と謎の信仰』の中で、平野氏は、龍馬は、千葉道場で北辰一刀流の奥義として、「妙見(みょうけん)信仰」を身につけたと述べている。それが反幕府の思想に結びついて、倒幕・維新とつながっていったのではないかというわけです。 なぜ反幕府の思想かというと、「妙見菩薩陀羅尼経(みょうけんぼさつだらにきょう)」というお経の中に、「王位(国家権力)が腐敗し民衆が困窮したとき、北辰は民衆のため新しい王位をつくることに法力を与える」という経文があるからです。 この妙見信仰は北斗七星・北極星を崇(あが)める信仰です。全国に妙見(みょうけん)寺や妙見神社がありますから、日本全土に拡がる土着の思想です。妙見菩薩という菩薩もいますが、どうやら、道教・仏教・神道が混じった信仰のようです。 この妙見信仰の一番古いものは、大阪にある妙見寺のようです(『妙見信仰の史的考察』、中西用康著、相模書房)。この妙見寺は、蘇我馬子(そがのうまこ)が創建したといわれています(『妙見信仰の史的考察』)。 従って、大避神社が北斗七星をあらわすとすると、妙見信仰というのは、もともとは、新羅系の秦人の信仰であり、それが、全国に広がっていったのではないかと考えられます。 新羅人や秦人は、奈良時代以降、権力の中枢からは外れていますから、この妙見信仰は反朝廷、反藤原、親武士の思想になるはずです。このことは、「妙見(みょうけん)信仰」が反権力の思想になって関東の武士に広がっていったという事実と、よく一致します。
それでは、いったいどのようにして、この妙見信仰は全国に広がっていったのでしょうか? どうやら、もともとあった土着の信仰を、さらに、弘法大師(空海)が全国に展開していったようです。弘法大師(空海)は、西暦806年に唐から帰国して、高野山に真言宗の総本山金剛峰寺(こんごうぶじ)を開山しました。その時に、「妙見大菩薩」と言う真言密教(しんごんみっきょう)の仏様(ほとけさま)を立ち上げたようです。 ちなみに、そのとき、弘法大師が唐から持ち帰った占星術の教典が宿曜経(すくようきょう、宿曜道ともいう)です。そして、全国を行脚(あんぎゃ)する過程で、妙見寺や妙見菩薩を広げています。 ところで、前半に述べたように、北極星の位置に聖徳太子ゆかりの斑鳩寺があることを考えれば、「妙見信仰」と「聖徳太子」には強いつながりがあるはずです。 実際、妙見信仰と菩薩信仰と聖徳太子信仰の3つは、微妙に混ざっているように見えます。 例えば、妙見信仰と聖徳太子の関係ですが、聖徳太子のもっていた剣が四天王寺にあり、その名前を七星剣といいます。北斗七星の七星です。 また妙見菩薩のもっとも古い菩薩像が、今も「読売ランド」にあります。 下がその写真ですが、この菩薩の髪の髷(まげ)は古代人のそれです。私は、聖徳太子の若いときの像ではないかと考えています。ちなみに、この菩薩像は、西暦859年作のものが、何かしらの理由で失われた後に、西暦1301年に再び造られたものらしいです。(『妙見信仰の史的考察』、中西用康著、相模書房)
また、菩薩信仰と聖徳太子信仰の関係ですが、法隆寺(ほうりゅうじ)では、聖徳太子は救世観音(ぐぜかんのん)として祀(まつ)らわれていたそうです。 救世観音(くせかんのん・ぐぜかんのん)とは、国宝観音菩薩立像ともいい、八角円堂で知られる夢殿(ゆめどの)のご本尊で秘仏として長い間人目に触れず過ごしてきた仏像です。さらに次のような説明がインターネット上にありました。 <引用開始> 「761年(天平宝字5年)の記録に「上宮王(聖徳太子)等身観世音菩薩像」とあり、聖徳太子の等身像ともいわれて秘仏であったが、明治17年アメリカ人の学者フェノロサと近代美術の先駆者、岡倉天心によって像を幾重にも覆っていた長い白布が除かれ広く世に知られるようになりました。当時、この秘仏の白布をとることは、聖徳太子の怒りに触れ、大地震が起こると言われていました。そして天心とフェノロサが布をとるとき、法隆寺の僧たちは恐れをなして、逃げていったと言います。」 (法隆寺地域の仏教建造物より引用) <引用終了> また、最近、エッセイ作家の五木寛之(いつきひろゆき)が書いた『親鸞』(しんらん)という本が売れています。親鸞は、聖徳太子が夢枕にでてきて、「非僧非俗(ひそうひぞく)」と「肉食妻帯」をして完全に仏教の戒律を無くしました。小室直樹氏はこのことについて、「政治家がなぜ宗教に口を出せるのか!」と日本仏教の異常さを嘆いていました。これも、聖徳太子が観音菩薩そのものであると考えれば理解できます。 妙見菩薩と観音菩薩の2つは確かに違います。しかし、上のような様々な言い伝えが働いて、妙見信仰、菩薩信仰、聖徳太子信仰の3つの信仰が複雑に混ざっていったのではないでしょうか。
最初に出てきた宇麻志(ウマシ)神社がある矢野町という場所の風景を歌った、柿本人麻呂の和歌がありますので、記しておきましょう。 <引用開始> 妻隠 矢野神山 露霜尓 尓宝比始 散巻惜 (巻10・2178号歌) 妻ごもる 矢野の神山 露霜に にはひそめたり 散らまく惜しも (矢野の神山が、霜や露で、色づき始めた。散ったら惜しいな) <引用終了> 「矢野の神山」というのがでてきますが、どこだかわかりません。柿本人麻呂は現人神(あらひとがみ、天皇は神であるという考え)という概念をはじめて打ち立てたひとですから、やはりこのあたりは、日本の大王(おおきみ)と関係のある土地なのだと私は推察しています。
白い鹿は道教では、仙人の「のりもの」として知られています。また、弘法大師(空海)が瀬田川を増水で横断できなかったときに、白い鹿があらわれ、助けてくれたという言い伝えもあります。 後に、大避神社と蘇我氏の関係に気がついたとき、私には、この白い鹿がこの「矢野の神山」の使いに思えました。 ジョー(下条)拝
2010/05/31(Mon) No.01
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